Keith Jarrett / キース・ジャレット

Keith Jarrett / キース・ジャレット
Biography

キース・ジャレット(Keith Jarrett、1945年5月8日 – )は、アメリカ合衆国のジャズ・クラシックピアニスト、作曲家。
ジャズ・ピアニストとして広く認識されているが、クラシック等、ジャンルを超えた音楽表現を身上とする。演奏楽器もピアノにとどまらず、ソプラノ・サックス、パーカッション、ハープシコード、リコーダーなど多岐にわたる。メロディーの美しさもさることながら、中腰の姿勢で、時折うめき声を出しながらピアノを弾く姿が印象的。2003年、ポーラー賞を受賞。

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Keith Jarrett / キース・ジャレットの経歴

ペンシルベニア州アレンタウンにて出生。5人兄弟の長男として育ち、3歳頃よりピアノのレッスンを受ける。幼い頃から音楽の才能を発揮し、8歳の頃にはプロのピアニストとして自作の曲をコンサートで演奏するという経験をしている。幼少期はクラシックの教育を受けていたが、高校時代からジャズに傾倒するようになった。1964年のいわゆる「ジャズの10月革命」にも影響を受けたという[1]。卒業後はボストンのバークリー音楽大学へ進学し、自己のバンドを結成、ジャズ・ピアニストとしての活動を開始した。
ニューヨークへ活動拠点を移した後、1965年にアート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーにジョン・ヒックスの後任として加入。メッセンジャーズのアルバム『バターコーン・レディ』がレコード・デビュー作となった。わずか2ヶ月あまりのメッセンジャーズ時代の後、翌年にはチャールス・ロイドのカルテットに参加し、ジャック・ディジョネットとともに注目される。在籍中に発表されたロイドのアルバム『フォレスト・フラワー』は、60年代後期のジャズの作品としては最もヒットしたものの一つである。1967年には後のアメリカン・カルテットでも共演するポール・モチアン、チャーリー・ヘイデンの2人を擁したトリオで初リーダー作『人生の二つの扉』をアトランティック・レコード傘下のVortexより発表している。ロイドのカルテットには1968年頃まで在籍。

1970年、マイルス・デイヴィスのバンドに参加。当時のマイルスは発表したばかりの『ビッチェズ・ブリュー』のようなエレクトリックなサウンドを追求しており、今までジャレットが経験していたアコースティックのピアニストとしてではなくキーボーディストとしての登用だった。在籍初期は先に入団していたチック・コリアとのツイン・キーボード制のなかで、主にオルガンを演奏した。3~4ヶ月という短いツイン・キーボード体制の後、チック・コリアの同バンド退団後はひとりでオルガンとエレクトリック・ピアノを担当し、ジャック・ディジョネットとともにバンド・サウンド決定の重要な担い手となった。在籍中の主なアルバムとしては、ライブ盤は『アット・フィルモア』『ライブ・イビル』、スタジオ盤では『ゲット・アップ・ウィズ・イット』『ディレクションズ』などがあり、その後のアコースティックが主体の活動に無い、エレクトリック楽器でのプレイが聴かれる。マイルス・グループには1971年の終わり頃まで在籍。

マイルス・グループ在籍中の1971年、グループのヨーロッパ・ツアー中に当時ドイツ・ミュンヘンの新興レーベルだったECMのオーナー、マンフレート・アイヒャーと出会う。同年録音の初のピアノ・ソロ・アルバム『フェイシング・ユー』とジャック・ディジョネットとのデュオ『ルータ・アンド・ダイチャ』を嚆矢として、現在まで30年以上に渡ってECMより作品を発表し続けることになる。『フェイシング・ユー』ではあらかじめジャレットが作曲した曲がスタジオで演奏されており、このスタイルのピアノソロ作品としては『ステアケイス』、スタンダードを演奏した『メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ユー』などが挙げられるが、1972年頃よりプログラムの一切無い完全即興(Total Improvisation)によるピアノ・ソロ・コンサートを行うようになる。ECMもそれらを積極的にレコーディングし、1973年にはブレーメン・ローザンヌで実際に行われたコンサートをそのまま収録したLPレコード3枚組(CDでは2枚組)の大作『ソロ・コンサート』をリリースし、音楽界に衝撃を与えた。このスタイルでの実況録音盤の第2作である『ザ・ケルン・コンサート』はジャズのレコード・CDとして最も高い売上を記録したヒット作の一つで、ジャレットの名を広く知らしめた。以後、現在に至るまで世界各地でピアノ・ソロ・コンサートを行い、折に触れて実況録音作品をリリースしており、ジャレットの一つのライフワークとも言える。
70年代においては、ピアノ・ソロでの活動と並行して2つのバンドを率いた。1971年には以前から活動していたチャーリー・ヘイデン、ポール・モチアンとのトリオにサックスのデューイ・レッドマンを加えた通称「アメリカン・カルテット」を結成。カルテットの音楽には、オーネット・コールマンとの共演歴があったレッドマン、ヘイデンによるフリージャズの要素や、ゲストとしてパーカッショニストのギレルメ・フランコやアイアート・モレイラらがしばしばバンドに参加したことからエキゾチックな民族音楽の要素も見られた。初期にはアトランティックや、コロムビア、中後期にはインパルス、ECMといったレーベルに作品を残している。ジャレットは1974年にこのカルテットを率いて初来日を果たしている。
もう一つのバンドである通称「ヨーロピアン・カルテット」はパレ・ダニエルソン、ヨン・クリステンセン、そしてジャレットと並びECMを代表するミュージシャンであるヤン・ガルバレクという3人の北欧出身ミュージシャンを擁するカルテットで、ECMに4つの作品を残した。スタイルとしてはアメリカン・カルテットに似ていたものの、こちらはヨーロッパの民謡に影響を受けた音楽を展開。このカルテットも1979年に来日しており、これはヤン・ガルバレクの初来日でもあった。

1978年のゲイリー・ピーコックのアルバム『テイルズ・オブ・アナザー』が初めての顔合わせとなったキース・ジャレット、ゲイリー・ピーコック、ジャック・ディジョネットの組み合わせによるトリオは、1983年になって再びマンフレート・アイヒャーによって集められ、『スタンダーズVol.1』『スタンダーズVol.2』『チェンジス』の3つのアルバムを発表した。当時、これまで各々の活動を続け、各々の音楽性を持っていた3人が伝統的なスタイル、オーソドックスなスタンダード曲によるジャズを演奏し発表するというのは意外なことで、ジャズ界を沸かせた。この通称「スタンダーズ・トリオ」は80年代以降のジャレットを代表する活動となり、2000年代に入った現在まで25年以上、継続してライブを行い作品を発表し続けるジャズ史上でも稀有なユニットとなった。

また、80年代後半から90年代にかけては、本格的なクラシック音楽のレコーディング活動を行っている。これまでも『イン・ザ・ライト』など自作のクラシック作品を演奏・録音してきてはいたが、ECMのクラシック部門であるECM New Seriesの創設、その第一弾であるアルヴォ・ペルトの『タブラ・ラサ』のレコーディングへの参加が、ジャレットの最初の本格的なクラシック・現代音楽作品の録音となった。同アルバム収録の「フラトレス」でジャレットはギドン・クレーメルと共演している。その後ジャレットは1987年のJ.S.バッハの『平均律クラヴィーア曲集第1巻』を手始めとして、自身が作曲家として影響を受けたというJ.S.バッハとショスタコーヴィチ、他にはヘンデル、モーツァルトなどの作品を取り上げている。ピアノだけでなく、ハープシコード、クラヴィコードも演奏した。
1996年のイタリアでのコンサート中、ジャレットは激しい疲労感に襲われ、そのまま演奏することもままならない状態に陥ってしまう。彼は慢性疲労症候群と診断され、同年の秋以降の活動予定を全てキャンセルして自宅での療養を余儀なくされた。一時期はピアノを弾くことや外出はおろか人と会話する体力さえ無く、暗い闘病生活を送った。1998年に入ってやっとピアノが弾けるようになるまでになり、ようやく復活の兆しが見えた頃に自宅のスタジオにて録音されたのがピアノ・ソロ作品『メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ユー』で、この作品は療養中彼を献身的に支えた妻のローズ・アン・ジャレットに捧げられている。翌年の同作の発表をもってジャレットは本格的に演奏活動を再開し、2010年の現在に至るまでソロとトリオの双方で精力的な活動を続けている。